COMET (COherent Muon to Electron Transition) 実験は、ミューオンを使って新しい物理法則の発見を目指す国際共同実験です。 J-PARC(大強度陽子加速器施設、茨城県東海村)のパルスミューオンビームを利用し、ミューオンの稀な崩壊過程(ミューオン電子転換過程)を1京分の1の精度で探索します。 九州大学素粒子実験研究室も本実験に参加しており、2021年以降の実験開始に向けて検出器の開発やシミュレーションを用いた研究を行っています。
素粒子物理の基本的な相互作用を記述した”標準理論”は多くの実験的事実を矛盾なく説明することができますが、一方で暗黒物資の存在など未だに解決できない問題が残っています。
これは私たちがまだ知り得ていない新たな物理法則の存在を意味します。
"標準理論"では世代ごとのレプトン数(=レプトンの数−反レプトンの数)は保存され、反応の前後で変化しません。
この法則をレプトンフレーバー保存則と呼びます。
一般的なミューオンの崩壊ではレプトンフレーバー保存則に則り、反応の前後でそれぞれの世代におけるレプトン数は変化しません。
対してミューオン電子転換過程ではそれぞれの世代におけるレプトン数が反応の前後で異なります。
ミューオン電子転換過程はレプトンフレーバー保存則を破るので"標準理論"において強く制限され、10-54の確率でしか起こりません。
しかし、いくつかの標準理論を超えた枠組みの理論によると測定可能な範囲(10-16:1京分の1の確率)でこの反応が起こると予想されてます。
COMET実験では、ミューオン電子転換過程を実験的に発見することで新たな物理法則の発見を目指します。
一般的なミューオンの崩壊過程では電子と共に反電子ニュートリノとミューニュートリノという2つのニュートリノが放出されるので、それぞれの世代におけるレプトン数(右図での電子数、ミューオン数)は保存されます。 また、ミューオンの質量分のエネルギー、約105 MeV(メガ電子ボルト)を3つの粒子で分け合うため、電子のエネルギーは105 MeVより低い様々な値を持ちます。
ミューオン電子転換過程では、原子核近傍のミューオンがニュートリノを放出せずに1個の電子へと崩壊するため、世代ごとのレプトン数が保存されません。 また、ミューオンの質量分のエネルギーを全て1個の電子が持っていくため、ミューオン電子転換過程で放出される電子のエネルギーは105 MeVと決まっています。 そのため、電子を精密に測定することで、ミューオン電子転換過程由来の電子を識別することができます。
J-PARCの世界最大強度のパルス陽子ビームをパイオン生成標的に照射し、発生したパイオンをソレノイド磁場で捕獲します。 パイオンは湾曲ソレノイド内でミューオンに崩壊します。 湾曲ソレノイドは電荷と運動量を識別できるので、低エネルギーの負電荷ミューオンのみを選択し輸送します。 このミューオンをミューオン静止標的で静止させます。 ミューオン静止標的に静止したミューオンが崩壊して発生した電子を測定します。
COMET 実験はPhase-IとPhase-II の2段階で行われます。
Phase-Iではミューオン輸送ソレノイドの90度湾曲部までしか作成しません。
そのため、Phase-II用の検出器のままでは標的に当たらなかった多数の粒子が検出器に当たり、見たい信号が埋もれてしまいます。
そこでPhase-IではPhase-IIとは異なる検出器(円筒型検出器群)で電子の測定を行います。
Phase-IIでは、180度湾曲ソレノイドからなる電子輸送部で105MeV領域の電子のみ選択し、検出器部に輸送します。
検出器は、真空中に置かれたストローガス飛跡検出器とシンチレーション結晶からなる電子カロリメータから構成され、電子の運動量とエネルギーを測定します。
COMET Phase-Iでは、主に以下の2つの検出器からなる円筒型検出器群を用いて物理探索を行います。
(1) 円筒型ドリフトチェンバー(CDC)
運動量を精密測定するガス検出器です。
磁場中での荷電粒子の飛跡から、運動量を200 keV/c以下の高い精度で測定することができます。
(2) トリガー検出器
COMET実験では膨大な背景事象が生じるため、CDCの全データを記録することはできません。
記録すべき事象を選別するための検出器がトリガー検出器です。
チェレンコフ検出器を用いて電子による信号候補の事象を効率的に選別することができます。
また、事象が起きた時刻を1 ns以下の精度で測定する役割も担っています。
九州大学ではトリガー検出器の開発を担当しており、試作機を用いた研究開発を行っています。
電磁カロリメータ(Electromagnetic Calorimeter)は、入射してきた粒子のエネルギーを測定する検出器です。
COMET Phase-IIで最下流に設置されます。
シンチレータと呼ばれる蛍光性のある結晶で構成されます。
粒子は物質と反応するとエネルギーをその物質に与えます。
シンチレータは与えられたエネルギーに比例して光を放つ性質を持っているため、その光量を測定することでエネルギーが測定できます。
電磁カロリメータに入射した電子のエネルギーが105 MeVか、そうでないかの判断が実験の鍵です。
そのためこのエネルギー測定の精度(分解能)がとても重要です。
九州大学はCOMET実験コラボレーションの中でこの検出器の研究開発をリードしています。
電磁カロリメータのプロトタイプ(試作機)を製作し、国内外の粒子加速器を用いて性能評価などの試験実験や研究をおこなっています。
電磁カロリメータの上流側に設置される、粒子飛跡検出器です。
磁場中で螺旋運動する荷電粒子の飛跡を検出し、下流の電磁カロリメータで得られる情報と組み合わせることによって、電子の運動量測定や粒子の識別を行います。
この検出器は、COMET実験Phase-IIでの粒子の識別及び運動量の測定に使用します。また、Phase-Iにおいてもビーム起因背景事象の測定に使用します。
高精細な運動量分解能を実現するために、低物質量のストローチューブ飛跡検出器を真空中で運用する予定です。
本研究室のCOMET実験グループは、この検出器の研究開発や性能評価にも貢献しています。
粒子が検出器を通過した際に放出される光や電子は検出器内で電気信号に変換されて出力されます。
この電気信号は最終的にパソコンで読める形式に変換されますが、そのためには専用の電子回路が必要になります。
これは市販の家電製品でも同様(例えばテレビは受信した電波を画面に表示できるように電子回路を使って信号を変換する)ですが、素粒子実験では市販の回路よりも高速かつ大量にデータを処理する必要があるため、また実験ごとに信号に特性があるため、実験ごと独自に読み出し回路の設計開発を行う傾向があります。
COMET実験では"ROESTI"と名付けられた独自の読み出し回路を開発しています。
このROESTIは電気信号の波形を記録することができ、この波形を解析することで同時に同じ検出器に入った粒子を識別し、粒子のエネルギーや運動量・測定器に入射した時間を精度よく求めることが可能になります。
素粒子実験ではシミュレーションを用いて実験装置の性能を評価し、その結果をデザインにフィードバックしてより性能の良い検出器のデザインを決めていきます。
逆に実際に製作した検出器をテストしてシミュレーションと比較し、結果が違う場合は計算方法を修正してシミュレーションの結果が実際の検出器の反応に近づくようにします。
COMET実験では"ICEDUST"と呼ばれる独自のフレームワークを開発し、様々な種類・エネルギー・運動量を持った粒子がCOMET実験の各検出器に入射した際の検出器の反応をシミュレーション上で再現できるようにしています。
また検出器の反応から粒子の種類・エネルギー・運動量を識別・評価する解析プログラムも組み込まれています。
これを用いれば実験に参加している研究者が簡単にシミュレーションを使用し検出器の性能評価や解析ができるようになっています。
将来、COMET実験が稼働してデータを取得した際には、ICEDUSTを用いて検出した粒子の種類・エネルギー・運動量を評価し、データとシミュレーションを比較してミューオン電子転換過程がないか解析を行います。